たつきドキュメント

「身体0ベース運用法についての省察」(物編)

身体性云々、言語性云々、道具性云々の話は口が酸っぱくなるほど思索したが、体現している人を見つけるのは大変難しい。なぜなら単なる学者、アスリートやアーティストの域では無意味だとおもうからだ。然し「身体0ベース運用法」は概ね全てを包括した運用法であると言っても過言ではなかった。先ず安藤といふ人が貴重な存在であるといふ事、凸倉庫が辺鄙だといふ事、WSの説明がパッケージしずらいといふ事である。単なる博覧強記の専門家、脳髄が硬直したアスリート、前衛に思考を奪取されたアーティストはお門違いであるといふ事を再確認した上で、地道な身体性、言語性、道具性による気づきを得たければ最適なWSであろふ。こういふ人、こういふ場所、こういふ授業やWSを草の根運動で増やしていく必然性を感じられた。言葉は道具であるが、道具は沈黙の言葉である。また道具性は保守的な傾向を、暗黙裡のうちに形成するものである。身体0ベース運用法1回目の省察はこれで終わりです。

 

「身体0ベース運用法についての省察」(場所編)

日常生活では、如何に利便的であるかを必然的に追及してしまふ。ゆえに不安定に身を置き自らの身体性と向き合い研鑽を重ねていく行為からは必然的に背かざるおえなくなるのである。今回の場所編は、地盤を不安定かつ非方向性である殺風景な山を使うことによって利便的ではない場所への適応の仕方を体験するといふことであったと省察する。利便性は利便として向き合わねばならず、表象論でそれらを喝破するのはよろしいとは考えない。然し利便的道具に囲まれた生活を送るなかで、身体性は必然的に変質してしまっているといふ事、些細な風情が霧消してしまっているといふ事、身体性が合理化に照合され、柔軟的な性質が体験できなくなっているといふ事などを踏襲しつつ、それらを忌避する何かと向きあふ必然性はあるだろふ。今回は利便的身体と利便的ではない身体の性質を内部に明記していく過程が現代において意外と重要ではないかと考えるに至りました。

 

「身体0ベース運用法についての省察」(リズム編)

今回は、座禅をするといふ前置きから始まり、棒や石を使ってリズムを取るといふ内容であった。道具性は身体に沁みこませる事が全てであるといってもよいが現代では、それを行うのも至難の技だろふ。我々は道具を打ち込む事に何かと意味付けをする思考を会得することによって道具性そのものよりも道具を観念で理解することを優先してしまふ傾向が高いだろう。また単調な道具の反復は、何の役にも立たぬであろふといふ魂胆があると思ふ。社会的にもさして道具性は軽視されていると考える。だから尚更さういふ魂胆が膨らむ。故に《言語概念》に染まった思考のみで身体は成り立ってはおらぬといふ自負心が重要であると思ふ。私は、原始人と現代人の器質や機能はさほど変わらないと思ふ。しかし明らかに原始人は目的観念が現代人より希薄だろふ。彼らは意識がきわめて低いなかで道具性を容易く会得していたはずである。


たつき 

 1987年生まれ。大学時代に、映像専攻。近年「権力への意志」《各々の世界解釈》を基盤として、表現《アオリスト》と撮影と省察を縦横無尽に展開しようと試みている。とりわけ合理的ではなく方向性を定めない。病的な《利他》《真理》を疑い健康的な《利己》と《探求》を主軸に置こふとしている最中である。