参加者インタビュー 03 則本桃子

インタビューというのは間主観性を基盤とするものであって、主観とも客観とも言えない。その硲にあるものだといふ感覚が重要である。則本は6年間、中高で一律ダンスにのめり込んでおり、近年は面目躍如たる集団ダンスに魅了されているようである。

 

<考察>

則本と話すことによって幾つかの微妙な疑問点が明白になってきたかのように思えた。其れは主に2点に集約される。1つ目は「揃っているが揃っていない集団の調律性」に関する話である。一見適正な集団機能は右を向けと指示されれば右を向き、左を向けと指示されれば左を向く機能であるかのように思える。然しこういふ機能は必ず瓦解するように思ふ。だが何の規矩準縄もなければ人は文脈の認識が曖昧模糊となりかえって身動きが取れなくなる可能性がある。よって適正な集団機能とは、揃っている事と揃っていない事が同時に確認することが可能な集団だといふ事になる。さういふ微妙な機能を集団ダンスは促進しているように考える事ができるであろう。2つ目は創作ダンスとカリキュラムが撞着だといふ事だ。創作ダンスは美辞麗句を言えば、各々の面目躍如たる表現を鼓舞させるものだ。然し乍創作ダンスを標榜する斯界はお世辞にも個性的とは言えない。私にはエピゴーネンという鉄鎖に繋がれた亡者が窮屈に自由放埓な猿芝居を演ずるものにしか見えない。厄介なのはさういふ事を嘆いても結果的にさういふ場所でしか学習、活動しえぬといふ事なのだ。

 

近年、則本は母親の動きに無意識にも似てきたといふ事実を物語っていた。自らの動きとてどこかしら他者の動きなのであって、他者の動きとてどこかしら自らの動きなのである。さういふわけで、身体性の効用は予想以上に大きい。然しボンサンスにはなりずらい。身体性を軽視する理性獣、集団規律の奴隷となった社畜獣、創作といふ阿片を服用した芸術獣が跳梁跋扈するなかで如何に身体性に向き合い、如何に身体性を表出するのかという事に尽きると思います。合理主義と集団浅慮、昇華暴走のブレーキが身体性だと思うのだが、我々は身体の君主ではなく臣下に陥りがちのようである。