TRIAL たつきの館

【コラムו】今回は料理の話をしようと思ふ。料理と無関係な生活を送っていると、料理はレシピがすべてであるといふ観念が脳髄を支配していた。よって「はじめにレシピありき!」だと考えていた。

 

然し料理と密着した生活を送っていると必ずしもそうではないことがわかるだろふ。料理もまた身体の延長に存在しているものにすぎない。いざ一つの料理を作っていると、瞬時に付け合せの食材がなにかといふことがわかるようになる。またどのタイミングで何を入れるかといふのもわかるようになる。また場合によっては料理と逸脱した行為すら料理時間内に済ませることができる。主婦にあらゆる家事や料理を任せることによって日常生活はつまらなくなった。料理をごくあたりまえにできるようになれば我々の思考も格段に飛躍するだろふ。

(1)合田&野村

冷静沈着に2人の動作を見てみるとさほど動きがない事に気づかれるだろふ。片方が動くとき、片方は静止する。合田が静まるとき、野村は動き、野村が静まるとき、合田は動くのである。一見デュオは2人の力動によって成立するかのように思えるが、今回のような、比較的静寂な動きのなかにも力動は潜んでいるといってもいいと考える。

 

(2)たつき

歌を歌ふといふ試みである。さほど上手いわけではない。私と何の関係もない山本譲二の「蓬莱橋」と浜崎あゆみの「トラウマ」を熱唱するといふパフォーマンスである。「蓬莱橋」は演歌だといふこともあって自然に熱唱のスイッチが入るのである。サビの部分は激しい熱唱をした。「トラウマ」は自分で歌ってみて、曲調はポップだが、哲学的な歌詞であると感ずることができた。それにしても前回、前々回以上に自らのパフォーマンスの無意味さがじわじわと伝わってきた。本当に無駄である。

 

(3)げいまきまき

げいまきまきからは常習犯の匂いがするのである。確かに不器用な面も伺えるのだが、全体的に手馴れている職人堅気の匂いを醸し出してしまっていると思ふのである。なので、私の認識からみるとどうも無難な橋を渡っているような気がするのだ。自ら性的パッケージを前面に押し出しているところが私がそう感じてしまふところなのである。

 

(4)ミウラ一号(plus全員)

たまに聴こえる「ビヨーン」といふ音がゲシュタルトのなかで重要な働きをしているのだと思ふ。ただ一つ注意点で思ったのは、ミウラ一号の音楽は、どうも動きの画一性を生んでしまふ可能性が高いような気がする。どうしてもあの呪術的なテンポに合致させようとする作用が働いてしまふ。要は音楽に束縛されてしまい、意外と自由に動けなくなるのである。

 

たつき 

 1987年生まれ。大学時代に、映像専攻。近年「権力への意志」《各々の世界解釈》を基盤として、表現《アオリスト》と撮影と省察を縦横無尽に展開しようと試みている。とりわけ合理的ではなく方向性を定めない。病的な《利他》《真理》を疑い健康的な《利己》と《探求》を主軸に置こふとしている最中である。