たつきのインタビュー⑤菱川裕子

 

私は菱川のインタビューを目論んでいたが、畢竟、菱川へのエクスビューに転じた。よって此の話は菱川の客観性を浮き彫りにしたモノであると同時に、菱川を鑑にすることによって私といふ人物を物語っているモノだ。元来、演劇へ闖入したはずの菱川は、即興接触といふ天幕に覆われた。その流れでダンスの型を習得している最中である。然し一歩前進、二歩後退であろうか。もはやどの地点に自分が立っているのかといふ位置の難しさに困惑しているのである。破天荒を懇求すればするほど羞恥心が増してくる。果敢に挑戦しようと意気込むほど保身が増してくることになると憶測される。

 

(α)インタビュー

精緻な疑問点は幾つか抽出された。1つめはある種の型は、若い時期に会得すればするほど、身体に馴染みやすいものとなる事である。菱川はバレエの型を例にしてその事を明瞭にしてくれたように思える。2つ目は台本至上主義に基づいた態度の問題である。台本至上主義を誠実に熟す人間は立場主義を謳歌することは可能である。野暮な立場主義をそぎ落とす事によって人は洗練された粋な人になれる。然し乍、立場主義者か?粋な人か?といふ究極の2元論は理屈を凌駕した態度によって認識されるものであって一切の誤魔化しの効力はないと思われる。極論すれば、立場主義者は必ずしも役割をこなしているとは言いがたく、粋な人が意外と重要な立場の支点になっている場合が多いと思ふ。

 

(β)エクスビュー

現代といふ時代は川を澱ませただけではなく橋の設計にも失敗した。もはや何が保守か?革新か?前衛か?という問いを幾ら頭のなかで考えても永久に答えがでない袋小路が繰り返されるのだ。そのなかで私は慣習性と言葉の2点を重視する。具に言えば「道具を如何に扱うのか?」「現象を如何に言葉で表現するのか?」と云ふ事である。箸の持ち方ひとつでその人がどういふ人物なのか必然的に露わになる。自然な振る舞いは隠蔽することが難しいので、道具の使い方は品性を量る天秤である。言葉は何度も云うように、個人を形づくる恩師である。私がきわめて漢字を重視するのは、私が懐古趣味だからといふ事ではなく、漢字が我々の思考とどこかで繋がらざるおえないからだ。そこから完全に逸脱可能であれば私は漢字が重要だとは一寸も思わないだろふ。