参加者インタビュー04 石田安俊

(一回目)

 

石田「昔から踊りと言えば運動会のフォークダンスか盆踊りしか踊った事が無いと思っていました。歳をとってから踊り始め、子供の頃スキップをしながら下校したり塀の上を歩いたりしていた時の気分に近い物を感じています。最近では、若い頃の様に自由の利かない体で可能な動きを発見、組み合わせる過程。時間をかけて振り付けを身体に覚えさせた後、踊りながらもう一つの意識が自分や周辺を観察する感覚。一緒に踊る人や観客の反応が自分の心身に影響を及ぼしてくる事。こう言った事を楽しみながら踊っています。」

 

(⚠️再度インタビュー)

石田は主に様々なダンス団体に所属しており、様々な傾向パターンを知っている方だ。ゆえに非常に有意義な考えを持っており、私自身は大変参考になったと思われる。

 

α>先ず模範学習や物真似がどういふモノなのか明白になった。こういふ類のモデリングといふのはそっくりそのまま対象の振る舞いを摂取しているわけではないといふことだ。懸命に其の対象の振る舞いを摂取しようとしても振る舞いは必然的に食み出すのであり、ズレるのである。然しながら、これが歴史のリレーなのである。あえてズレようとしてズレるのではなく、必然的に食み出す。ここが重要なのである。付随した話では、システムがきちんとしていることによって安心してズレることができるといふ話もあった。

 

β>次に踊りの性質である。これは以前から思っていたのだが、認識の境界線を曖昧にする作用がどこかに存在しているのではないかと考えていた。それは空間に対する不文律の敬意であり、不倶戴天の敵に対する、異教徒に対する寛大さであろふ。踊るといふ行為は相手の懐に飛び込んでいく一つの手段であり、何らかの戦術なのだろふと考えられる。

 

γ>そして自我性質が強固な表現に対するレスポンス問題がある。台本至上、予定調和的なるものは人々はさういふものであるといふ認識を共有しているために、わざわざ意思疎通をするまでもない。結婚式や葬式といふのはさういふ不文律的なお知らせ的な意味合いを孕んでいるものだ。だが自らの性質を強固に披露するモノにかんして、大半の人はどういふレスポンスをしていいのかわからないといふ態度が形成しているように思えるのだ。それはシェアリングや飲み会といふ場所を設けないと何も意思疎通ができないといふ脆弱たる精神構造がさういふものに寄与していると考えざるおえない。普通の態度でさういふモノを披露し、さういふモノに質問を投げかけたり、レスポンスをする精神構造がなかなか習得しにくいといふ現状があるように思える。私はコンテンポラリーダンスといふ性質は好むが、羊頭狗肉となったコンテンポラリーダンスといふ公演は好まない。あれは自らの性質を強固に披露するものでも何でもないからである。

 

δ>さういふわけで、3つ重要なことを掴んだ。「モデリングの複雑な意義」「ダンスの境界を融和する性質」「全うな表現に対するレスポンスの欠落」である。