参加者インタビュー② 渡部智

 

渡部は旅人でありサバイバーである。そのなかで彼の身体は練磨されてきた。詳細な点は省くが、舞踏とコンテンポラリーダンスといふ二つの交錯が彼の世界観を確立したといっても過言ではない。相互様式の差異が渡部でありその差異が渡部の態度である。映画、演劇、舞踏、即興舞踊といふ橋梁を渡ってきた彼の答えは、主に、近年彼が触れてきたコンテに潜伏していたと考えられる。

 

渡部曰く、舞踏は自らを世界に明け渡し真摯にごねる変容体である。そこでは細胞の声を傾聴するという。一方彼が見いだすコンテは、自身の境界をもって世界に耳を傾け、均衡と不定と方向とある種の態度をもって再構成を図ることで世界と律儀に関与しえる哲学体系ではないかといふ。そこでは弱い力の変換が鍵になるといふ。舞踏とコンテは融合しえぬ太極であろうか? 渡部は私の位置が違うといふ。それ故に成立する、畢竟分かり合えない竹馬の友のような関係は成り立たないのだろうか?それは分からないといふ。

 

終盤、ダンスを自己表現として提示する名目において(主に舞踏表現にて)身体感といふ一つの態度としての説明責任があるといふ話になった。それを踏襲していえばダンサーとダンサーを名乗る曲芸師は違う。ダンサーとはさういふ哲学体系を修めた身体なのであって人生である。それを持たぬダンサーを名乗る曲芸師は芸人の延長である。論理性は乏しいが身体性が饒舌であるダンサーも存在する。彼奴等はダンサーでもあるのだらうが、軽業師とも呼ぶべきか。我々はあらゆる事柄を言葉で説明できるほど万能な動物ではない。だが言葉を持つ動物である以上思考体系を持っている。人間が言葉を台にし跳躍する生き物であると捉えたとき人生観と説明責任がダンスであるという捉え方は決して行き過ぎた表現ではないだろふ。身体が思考や言語と完全に断絶しているとは思えないからだ。