TRIAL たつきの館

【コラムז】何事も「利他」と「真理」が社会構造の要請と結びつく。よって何かをやるといふのは必然的に「利他」と「真理」の呪縛から逃れられないといふことである。然しながら、この場合の「利他」と「真理」も実情は漠然としているものである。

 

それが「社会の役に立っているか」「子供の為になっているか」「この記事は絶対に正しい」か否かなど実質には説明しようがない。せいぜいステレオタイプ的な社会規範か市場原理に照らし合わせる事ぐらいしかできない。ゆえに私は便宜的にはこの要請に応えることを否定はしないが、基本的には関与しない方がよいといふ判断を下す。「権力への意志」《各々の世界解釈》を基盤として、前提の誤った「利他」や「真理」と距離を置きながら、「利己」と「探求」を基軸として、健康的な解釈の力を鍛えていくほうが健全であると思ふ。また自意識が浅薄であればあるほど社会包摂に寄与すると考えるのだ。

【TRIAL08】 2016年11月22日(火)

 

(A)合田&野村

【TRIAL06】「妖魔降臨」と類似した作品である。中央の微量光が作品を構成しているのは云うまでもない事である。今回私が着目する点は、眼前の対象が「合田と野村である」と同時に「合田と野村ではない」といふことだ。すなわちこの作品は、個人の存在が濃密であり浅薄であるといふ矛盾をどこかで抱えている。それが「不思議」を生むのである。

 

(B)三浦一号((α)野村(β)合田(γ)木村)

各々が三浦一号の音楽と関与しながら、「どういふ立ち振る舞いをするのか?」といふ議題が突きつけられる。三浦の音楽は、楔のようなもので、柔軟に動こうと思っても動けなくなる魔力があるように思ふ。(α)野村と(β)合田は従来の様式で三浦の音楽に挑もうとするが、柔和に手懐けられてしまふような印象を持った。(γ)木村は野村と合田とは異なった様式で、空間を独り占めしていったように思ふ。三浦の音楽は、大勢でやると露骨なパフォーマンスだが、ソロでやると自らの修行に寄与する。

 

(C)【TRIAL08】までの《たつきの整理

1回目《TRIAL04》ソフトクリームを食べるといふ内容。勿論この表現に何か意味があるかと言われれば皆無である。然しこれがどうでもいい事なのか否かも私的に判断しえない。やはり《食べる》といふのは一つの文化である事に変わりはないし、一つの表現としては全うだと考えるからだ。

 

2回目《TRIAL05》「裏・漢字検定」といふ問題。漢字といふのは、日常生活を当たり前のように支配している文字であり観念である。然し莫大な漢字があってもその大半は関与する必要がない。よって不要な漢字を地面から掘り起こす作業の端緒になればよいといふ動機があった。(⇨続く)

 

3回目《TRIAL07》「カラオケ」をした。これもさして意味はない。ただ歌ったといふだけでそれ以上何の説明もいらない。歌は機会が用意されれば思う存分歌えばいいし、率先して「カラオケ」に行く程熱中する必要もないだろふ。

たつき 

 1987年生まれ。大学時代に、映像専攻。近年「権力への意志」《各々の世界解釈》を基盤として、表現《アオリスト》と撮影と省察を縦横無尽に展開しようと試みている最中である。とりわけ合理的ではなく方向性を定めない。病的な《利他》《真理》を疑い健康的な《利己》と《探求》を主軸に置こふとしている最中である。