TRIAL たつきの館

【コラムד】

よく引用する『読書について』(『über lesen und bücher』)といふ本から抜粋。「昔の偉大な人物についてあれこれ論じた本がたくさん出ている。一般読者はこうした本ならば読むけれども、偉大な人物自身が書いた著作は読まない。新刊書、刷り上がったばかりの本ばかり読もうとする、それは「類は友を呼ぶ」と諺にもあるように、偉大な人物の思想より、今日の浅薄な脳みその人間がくりだす底の浅い退屈なおしゃべりのほうが、読者と似たもの同士で居心地がよいからだ。「古人の書いたものを熱心に読みなさい。まことの大家を。現代人が古人について論じたものは、たいしたことはない」(シュレーゲル「古代の研究)」まあ、これで十分でしょふ。

 

(1)原始的宇宙(合田有希 野村香子)

いつものような感じではあるが、今回は火が主役であり、出演者は脇役といふ印象がある。人と人の二者関係だけで成立するのではなく人と物の二者関係、人と人と物の三者関係によって全体が構成されているといふことだ。状況は古代的であるが宇宙的である。かといって今回はさほどあざとい感じがなくさらっとしている。ですので物を媒介とすることはこの上なく重要であり、我々は道具を使いながら、それによって生かされているのだ。

 

(2)裏漢字検定(たつき)

今回出題した問題は全部で22問であった。読みが11問であり書きが11問である。結婚行進曲(雷)が流れる、私が優雅に舞台に登場する。最初の読み問題は白耳義の読み問題であった。誰もわからなかった。最後の読み問題は丫童の読み問題であった。誰もわからなかった。最初の書き問題はトルコだった。ほどよい誤りだった。最後の書き問題はアンコウだった。惜しい間違いだった。結局22問のうち20問は誰もわからなかった。問題実施時間は気づいたら30分ぐらいやっていた。裏漢字検定が表現として適しているかはわからない。されど漢字は問題を解くだけではなく作成するといふ過程も、直に解答してもらふといふ状況も重要であると感じました。(⚠️写真に問題掲載。回答は載ってますが解答は載っていません。)

 

(3)ミウラ一号

ミウラ一号の所持している楽器類や口から出す怪しげな音は、もはや神妙不可思議であろふ。文明人が下手に解釈すると墓穴を掘りそうな音である。こういふ類の音楽は気がつくと瞬く間に囲繞されている。それが好みか否か、文明人か未開人であるかといふのは無関係であろふ。

 

(4)全員

私は(2)で用いたスケッチを使って闖入しました。呪術的な音楽と類稀なる漢字の数々、不気味に背後で燃え続ける炎といった怪しげな状況下のなかでどこまで行為をし続けることが可能であろふか?といふチャレンジである。背後からトルコやキューバといふ国名が掲げられた。火のなかに漢字が注がれ、地面に詭拝がなされたのだ。

「TRIAL01~05」までの総括。

 

TRIAL01は、TRIALの性質がまだ読みきれない状態にあった。やっている側もよくわかっておらず、見ている側もよくわかっておらず、私もよくわからなかった。TRIAL02は、なんとなくTRIALを事後的に省察可能になったと考えられる。というかたつきの館は02から始まったのであるから当然かもしれない。松田ゆみが先陣をきったと思ふ。私は彼女の影響力は計り知れないと思ふ。TRIAL03は、TRIALが「TRIALなのかショーケースなのか?」といふ微妙な境界線の中に存在するのだなあとしみじみと感じた。村田は受けを狙う事には長けているだろうし、狭間は芸術界隈に生真面目であるといふ印象を受けるのである。問題はそれがTRIALなのか否か?といふ事にある。TRIAL04は、TRIALをしよふと試みる人は意外と少ないといふことである。私は此の回で直にこういふものがTRIALであろふといふ体験を直に試みたと思ふ。また此の回で完全にTRIALにも慣れたと思ふのである。TRIAL05では、周囲には何の関係もないのだが、私的にTRIALの真骨頂を体験したのではないかと思ふのである。最後に思ふのは、EXPERIMENTと云ふと遊技施設のような匂いがするのである。つまり実験は手段なのだ。多少のワクワク感やどこかで前衛風な雰囲気に肖りたいと思ふ厭らしさが見受けられる。ゆえにTRIALとは一線を画すべきである。試みられる場所はほぼ存在しない。羽目を外すといふのも違うし、クラスの発表会も違うし、模擬試験とも違うし、サークル的なノリも違うし、地域の祭りとも違うし、プレゼンとも違うし、社内研修とも違うし、リハーサルとも違うし、ゲネとも違うし、EXPERIMENTだと大袈裟だろふ。そもそも表現者と観客自体がTRIALに慣れていないのだろふ。病は深刻である。

たつき 

 1987年生まれ。大学時代に、映像専攻。近年「権力への意志」《各々の世界解釈》を基盤として、表現《アオリスト》と撮影と省察を縦横無尽に展開しようと試みている。とりわけ合理的ではなく方向性を定めない。病的な《利他》《真理》を疑い健康的な《利己》と《探求》を主軸に置こふとしている最中である。