TRIAL たつきの館

「コラムג」

尚古に関して簡単に申し上げ候。先ずは基準と接触せよという事です。福田恆存は以下のように語ります。「私達は古典を古典と自覚した瞬間、その中に基準を探し求め始めるのです。寛容と、それを支へ、それに支へられる美意識を自分のものにしようとし始めるのです。さういふと、人々は私を頑固な守旧派だと言ふかも知れません。が、私は語法でも文字遣でも、昔の通りにせよなどと言つてもゐないし、実行してもゐない。私の言ふ事は実に簡単な事です。私は過去を基準とせよ、鑑とせよと言つてゐるのであつて、過去の通りにせよと言つてゐるのではありません。」単なる復古はエピゴーネンであり単なる革新は思い上がりです。歴史は尚古のなかに生きるのである。(『世俗化に抗す』福田恆存)

 

「TRIAL04」記録③ 2016年7月24日(日)

α>空港パフォーマンス

舞台が何処かは定かではない。空港であるといふ認識である。問題は、我々が外側から空港を観察しているのか、囲繞された内側の空間から外側を見ているのか判別がつかないといふことだ。世界は一つの舞台だが、老若男女問わず演者であり観客である。今回は合田と野村が主軸というよりかは空間が主軸であって合田と野村とその他の人物が包含されているといふ事でまちがいないだろう。

 

β>たつきパフォーマンス

直立不動でアイスクリームを頬張りながら、閃光の容赦ない点滅と対峙していく。「制約のなかで食べ物を如何に食べていくのか?」という課題が此のパフォーマンスの基盤となっている。また食べ方というのは喋り方のようなもので一律ではない。ただ貪り尽くすのではなく多角的な食べ方が求められていると思うのである。

 

γ>石田パフォーマンス

ダンスに全く属性や技術が不要とは言わない。されど私のような穿った曲者にはさして必要なものとは思わない。単に石田は瀟洒なのである。だからダンスが際立つのだ。そこらの傲慢な加齢臭のするオヤジが何をやっても石田の足元にも及ばないだろう。先ず垢抜けた石田が存在する。その背後に属性や技術が家来のように追尾してくる。これが闡明な解釈ではなかろうか。もちろん裏方の巧みな演出が石田のヒロイズムを際立たせている事は認めます。

 

δ>合田&野村&石田&たつきセッション

信頼感と安心感があるのは、相互の異質な身体がある程度憶測可能になってきたからだろうか?合田と野村と石田とたつきの動きを事細かに説明することは不可能である。ただ一つの動きからどういう動きに派生していくのかがある程度憶測可能になる。またそれが仮にはずれていたとしても柔軟に対応が可能になっていく。この4人はインディープロレスラーとして十分やっていけるだろう。

 

 

 

たつき 

 1987年生まれ。大学時代に、映像専攻。近年「権力への意志」《各々の世界解釈》を基盤として、表現《アオリスト》と撮影と省察を縦横無尽に展開しようと試みている。とりわけ合理的ではなく方向性を定めない。病的な《利他》《真理》を疑い健康的な《利己》と《探求》を主軸に置こふとしている最中である。